コニカ ビックミニ(初期)について


KonicBigmini

☆ジャンク度☆
不具合無し
撮影可能


KonicBigmini KonicBigmini
35mmF3.5とスペックは控えめだが、プリミティブな構成の4枚玉のレンズが秀悦なのだ。


KonicBigmini KonicBigmini
「Big mini」という矛盾した語列は英語圏の方が見るとどうなんだろう。
値段が380円と半端なので、定期偵察目標の「かめらのキタムラ」ではないな。
名古屋の「トップカメラ」か?


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シンプルな外装。
80年代のスタイリングっていうと、キヤノンはTシリーズだし、ペンタックスはPシリーズだし、遊びが過ぎたのよ。


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0.35mのクローズアップモードは立派。
このレンズカバーは、それなりに不具合があったようで、後裔機では廃止となっている。


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裏蓋に装填するCR2025が、日付だけでなく重要な制御系を担っているのが難点。
また、ヒンジのフレキ基盤が千切れてしまうのが、本カメラの最大のアキレス腱だ。


KonicBigmini
確保した時はケースが付いていた。


 既にコニカが民生カメラ趣味者にとって消滅して随分経つ。後にコニカとなる「小西六兵衛商店」とキングとなる「浅沼商会」が、我国の写真文化のパイオニアであり、長くピニオンリーダーだったのは間違いないようだ。薬品問屋である「小西屋六兵衛商店」が感材薬品や写真用品を手掛けたのが1873年だとされている。和暦だと明治6年だ。この「6」という数字は「小西屋六兵衛商店」と後のコニカにとって因縁深いキーワードになる。1903年に国産初の印画紙とカメラ「チェリー手提暗箱」を発売している。和暦だと明治36年だ。そして、1931年に国産初の写真用レンズである「ヘキサ―」が生まれる。これが昭和6年の話である。ということは、それまでの国産カメラは輸入レンズを使っていたのだろうな。「ヘキサー」の語源は6角形を意味する「ヘキサゴン(ヘクス=6)」だとされる。その「ヘキサー」が6枚玉だったのかはよくわからないのだが、「6」という数字がコニカにとってスイートな物だったのだろう。「小西六」という屋号に含んでいるくらいだからな。コニカのレンズとしては上位のブランドとして「ヘキサノン」が後に登場するのだが、カメラが電子化し、廉価になるにつれレンズのブランドの意味が曖昧になってしまった。これは他のメーカーも同様で、信じられない程に簡素で廉価なカメラが「フジノン」の名を冠している。そういう事情もあって、レンズはブランド名を失い、レンズには「KONICA LENS」という無味乾燥なフォントを印刷するのみになった。もっとも、1990年代に発生した高級コンパクトカメラのムーブメントに対するコニカの答えがコニカ HEXERであり、やはりコニカにとっては「ヘキサー」ブランドはスイートなのだろう。
               ☆            ☆
 コニカは、わが国にとって希有なカメラ/レンズメーカーであった。しかし、拙僧が物心ついた頃の認知では、コニカはフィルムメーカーだった。実際にコニカは一流フィルムや感材のメーカーであり、「コニカ100年プリント」というキャッチコピーを拙僧も覚えている。家にも有名なコニカC35EFが転がっていた。実用的なフラッシュを搭載した世界初のカメラであり、大ヒットしたカメラだ。そのカメラは母親が初めての給料で購入した物だと聞いている(ちょっと時代考証的に腑に落ちない点があるのだが)。だが、拙僧が物心ついた頃にはニコン FEが転がっていたから、ピッカリコニカは小学生の遠足にも渡せるポジションだったのが否めない。
 コニカも一眼レフカメラを筆頭に、フィルムメーカーらしく幅広い分野でカメラを展開していた。しかし、コニカプレスのような少数のシリーズを除き、プロ用カメラのジャンルでは限定的なシェアに甘んじてしまった。一眼レフカメラの自動化にも熱心で、コニカFTAは初のAE(シャッター速度優先)を搭載している。ここでも、コニカの一眼レフを使用するプロの姿を想像できないな。フジフィルムのフジカSTシリーズだってプロの愛用とは思えないが、フジフィルムにはフジカGX680とかフジカG/GSシリーズとか、プロの御用達カメラが存在した。大判レンズだってフジノンはクリティカルなブランドである。現在では「写真のプロ」なんて言ってもSNSのオフ会で「面倒くさそうな人」と思われるだけで、ポジティブな効果はないが、旧世紀の当時は「写真のプロ」が、一定の尊敬を受けて市場に影響があったのだ。
 それでも根強いコニカのファンは存在したのだが、コニカの一眼レフカメラはAF化に失敗してしまう。どうも、AFユニットの重要な電子部品の設計か製造を委託していた北関東のメーカーが失敗してしまったようだ。その後処理が原因なのか分からないのだが、コニカの内部抗争もあってAF化の道が絶たれてしまったという噂がある。その後も、主にコンパクトカメラでカメラメーカーとしてのコニカは継続するのだが、メインストリームとは言えなかったようだ。
 しかし、AF時代以降も時折コニカの名が世に響く。その一つが本カメラである。「ビックミニ」という矛盾したネーミングは冗談にしか思えないが、そのあたりも真面目に考えた結果なのではと思わせるのがコニカである。ズバリ、現場監督シリーズも、コニカの代表的なブランドである。登場は1989年だから、昭和64年であり平成元年ということになる。拙僧はイルクーツク農工高等学校でモスクワ放送のブレーミヤを聞きながらザイログのZ−80と格闘していた。暗室作業も経験があるのだが、積極的に写真やカメラと接していたわけではない。単車の経験も無く、ウブに国民機だったPC‐9801で大戦略をやっていたな。
 カメラの話に戻すと、当時は既にコンパクトカメラがズームレンズを搭載していた。そのレンジ拡大競争は中々凄まじかったようだが、当時の技術では小型化が難しくボディが巨大化して重くなった。巨大化はズームレンズのパワーアップに比例して激しくなる一方で、オリンパスのIZM330とかフジフィルムのズームカルディア3000とか、既にコンパクトでも何でもない。こういう、一眼レフカメラではないけどハイパーなカメラが「ブリッジカメラ」というジャンルを形成した。しかし、携帯には苦労するし、これだけ嵩張るカメラを持参するなら、小型のMF一眼レフカメラにコンパクトなズームレンズを組み合わせた方が遥かにイイ。
 そんな事情の中、世界最小最軽量を謳って登場したのが本カメラである。近代のコンパクトデジカメに慣れた現在の感覚からするともっさりしたデザインに見えるが、それだけ他のカメラが肥大化して複雑な形状をしていたのだ。レンズはシンプルな4郡4枚の35mmF3.5の単焦点レンズを搭載する。それだけでは面白くないので、マクロモード(クローズアップモード)を搭載し、35cmまで寄れる。これは当時としてはそこそこの特徴でり、A4のサイズの被写体をフィルムのアパチュアに収めることができる。本カメラのシリーズに「A4」と名を冠して言うモデルがあり、コニカの自信を感じるな。輸出用の別名だという説もあるのだが、クローズアップ撮影をアピールしたのだろう。レンズのパフォーマンスは素晴らしい。モノクロしか真面目に通していないが、諧調にメリハリがついて好ましい。AE/AFとも、ほぼ正確である。逆光のような光線状態が悪い時で、そこそこ対処する。ちょっと暗いアーケードでは、諧調のノリがイマイチだが、それを欠点として指摘するのは酷だな。そういう時はISO400のネガを初めから詰めるべきだろう。拙僧はアクロスを摘めたがAEは適切で、簡単ににシャッター速度が遅くなることも無かった。しっかりとカメラをホールドすれば、かなり暗くても対応可能だろう。明暗差が有っても、効果的なAEを算出していると思う。やはり、そういうシーンの撮影を想定するなら、適切なネガを用意するか現像でコントロールするべきだろうな。被写界深度はが意外と浅い気がする。開放時に周辺が流れるとか光量が落ちるというレポートもあるが、拙僧は気にならない。
 インターフェイス周りは不親切である。ゴム状の小さなボタンをを爪の先で押すのは快適ではない。電源OFF時にフラッシュの発行禁止を覚えてくれればいいのだがダメだな。当時、そういうカメラは殆どなかったから、本カメラの特定のウィークポイントではない。本カメラの本当の弱点は「フレキ基盤の断線」である。本体から裏蓋に蝶番を介してフレキ基盤が裏蓋に通じているのだが、耐久性がイマイチでここが断線している場合が多い。毛細血管のようなフレキ基盤を修復なさった方のレポートも存在するが、なかなか真似できるものではない。また、本カメラの裏蓋には電池(CR2025)を搭載しているのだが、この電池は日付以外にも制御系の重要な役割があり、エンプティになってしまうと事実上撮影が出来なくなってしまう。
               ☆            ☆
 軽快で良く写るカメラとして本カメラはヒットした。本カメラのヒットを受けてオリンパスのμや京セラのスリムTが登場する。オートボーイFXLあたりは、キヤノンの豊富なノウハウでて安く仕上げたのだろう。後発のリコーのR1やコンタックスのTプルーフは、かなり本気で設計した形跡があるな。
 しかし、本カメラはさほど開発費を十分に投入したとは思えない。当時の最少最軽量とは言っても、それほど画期的なサイズとは思えない。別にコニカが手を抜いたのではなく、コニカのカメラは画期的なアイデアのパイオニアとして何度もカメラ史に刻まれているが、安く供給する工夫にも熱心だった。設計上、高望みはしなかったのだろう。世界初のAFカメラであるC35AF(ジャスピンコニカ)だって、AFユニットの駆動は巻き上げ時にチャージしたスプリングで行っていた。そういうコニカの姿勢は好ましいものだろ。
 ジャンク駕籠に転がっていたらぜひ拾ってほしいカメラだが、なにせフレキ基盤の断絶した個体が多い。その点、注意していただきたい。

 
 撮影結果(東京散歩編)をご覧頂きたい。
 

(了:2014/1/19)


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