トプコン IC−1オートについて


TOPCON_IC-1
トプコンのコンシューマカメラの末期モデル。

☆ジャンク度☆
シャッター速度1/60以上シャッター幕開かず
とりあえず撮影可能


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 それまでレンズシャッター機だったレンズと互換性のあるトリッキーなマウント。

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 レンズ開放値もマニアルでセットするのだ。

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 輝ける「TOPCON」ロゴも、幾分か疲れて見れる。
 

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 オーソドックスな操作系。

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 パッケージングもオーソドックス。

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 素人仕事でモルトを補修してある。。

 トプコンのコンシューマー向けカメラ終焉の1機である。現在でもトプコンは健在だが、建築用や工業用の光学機器のメーカーの雄であり、我々市民とはなじみがなくなってしまった。とはいえ、トプコンファンの支持は熱い。その光学的に精錬されがならも、ボディの選択に迷いがあって主流に負けてしまった半官贔屓もあるだろうが、何かと非難されがちな陸軍ファンという需要も引き受けているのではないだろうか。本カメラをトプコン末期のカメラとだけ紹介しても面白くもなんともないから、その辺を掘り下げてみよう。
                 ☆           ☆
 「陸のトーコー・海のニッコ−」という言葉を拙僧のコンテンツの読者ならご存じであろう。第二次世界大戦の敗戦まで、トプコンつまり東京光学は陸軍を、ニコンつまり日本光学は海軍をパトロンとしていた。実際には設立は日本光学が1917年(ロシア革命と同年だ)であり、東京光学が1932年だから日本光学の方がかなり先輩で、陸軍も当初は日本光学から資材の提供(おそらく徴発に近かっただろう)を受けていた。しかし、1931年に満州事変が起こる。もともと、海軍とはそりの合わなかった陸軍だからお抱えの光学機器メーカーを欲したと思われる。具体的に軍がどの程度関与したの分からないが、精工舎を母体として東京光学が設立する。陸軍ファンにとって分が悪いのは戦争の成功が戦術レベルにとどまって作戦レベルになると下手だったとか、史実上の問題はあるにせよ、伝説の不在であろう。日本光学の測距器は戦艦大和に載っている。これは伝説として充分だ(武蔵のみ説有)。多分、一式中戦車のガンサイトはトプコンではと言ってみたところで伝説にはならない。爆撃機・攻撃機や戦闘機も陸軍機は疾風が別格くらいで零戦や一式陸攻(これはこれで酷い代物だが)に比べて評価はイマイチだ。プリンス・オブ・ウェールズやレパルス撃沈も海軍機の戦果だしな。無論、歩兵砲、連隊砲といった実際の戦闘での戦果は東京光学製の光学機器・測距器が大いに健闘しているのだろうが、ロクに戦艦らしい戦い(という物を海軍自身が真珠湾で過去のモノにしてしまったのだが)もしていない大和の測距器が伝説になってしまうのも戦場の皮肉だろう。
 日本光学も戦前にカメラ用レンズを生産している。例のハンザキヤノン用Lマウントレンズは有名である。しかし、カメラの製造は戦後からだ。東京光学は僅かながらもカメラの製造をしている。実験生産的なモノを除けばミニヨンは有名である。これはベスト判カメラだが、それなりに製造したようだ。もっとも、登場は1937年、つまり日中戦争の勃発と同年だから、生産・販売は限定的だっただろう。ミニヨンは戦後、ライカ判のミノヨン35としてブランドは継続している。あまり良いネーミングでないと思うのだが、東京光学もそう思ったらしくて速やかにトプコンブランドが立ち上がる。以降は東京光学もブランドとしてのトプコンと同様とさせて頂きたい。
                 ☆           ☆
 時代は時代の寵児がライカ判一眼レフになるまでまで思いっきり飛ぶ。トプコンが一眼レフカメラを手掛けたのは我が国では早い方だろう。1957年にエキザクタマウントのフォーカルプレーンシャッター一眼レフのトプコンRを送り出す。これは1963年に登場する、世界初の開放TTL測光を実現したトプコンREの前衛となるカメラである。トプコンの一眼レフに対する姿勢は決して保守的ではなく、大胆で攻撃的であった。しかし、その市場は主に北米に向けたもので大柄でゴージャスすぎるスタイリングや価格は国内市場では受け入れられたとは言い難い。世界中で金を持っているのは北米人なのだから北米だけ相手にすればよいというのは、当時としては一理あったのだが、よもや極東の敗戦国が一大カメラ消費国になろうとは思わなかったのだろう。貧乏人の国内向けという訳ではなかっただろうが(か?)、1959年にレンズ固定式のレンズシャッター一眼レフのトプコンRPを出している。これはレンズ交換は出来ないし、クイックリターンじゃないし、絞りもプリセットと貧乏くさいカメラなのだが、スタイリングがキュートなので憎めないカメラだ。当時はフォーカルプレーンシャッターよりもレンズシャッターの方が安かったらしく、廉価シリーズとしてトプコン ユニシリーズを展開する。レンズシャッターだがレンズ交換もできて開放TTL測光も可能としている。しかし、贔屓目に見てもペンタックスやミノルタに比べてスマートなカメラとは言えないな。それでも、ユニや後裔機のユニレックスをそこそこネットオークションで見ることができるのは、レンズシャッターに優位性があったとかそういうことではなくて、どうしてもニコン(ニコマ−ト)は嫌だとか、三十八年式田中歩兵銃でないと萌えないとか、そういうフォロワー層がいらっしゃったのだろう。当初は西ドイツ製中級機とか、コーワとか、ライカ判レンズシャッター一眼レフというジャンルは形成していたのだが、次々と脱落していった。決定的なのはコパルスクエアの登場だろうな。しかし、トプコンは善戦した。だが、致命的な出来事がライカ判レンズシャッター一眼レフにとどめを刺す。精工舎がシャッターの供給をヤメテしまったのだ。なので1972年に輸出用として登場したユニレックスEEを最後にユニシリーズは消滅してしまう。
 しかし、それでもトプコンは諦めなかった。1974年、なんとレンズシャッター一眼レフのレンズマウントを継承したフォーカルプレーンシャッター一眼レフのIC−1オートを投入してしまうのだ。たしかに、レンズシャッター一眼レフ用のレンズでも、絞りを開放にしてシャッターをバルブにしておけばフォーカシングは可能だし、オート絞りも巧みなギミックでフォーカルプレーンシャッターのボディで実現してしまった。無責任なメカライターが書きそうな理屈だが、本当に商品として実現してしまったトプコンの執念に脱帽である。ちなみにIC−1用のレンズはユニシリーズにはつかないらしい。レンズシャッターが無いのだからついてもしょうがないのだ。付属のレンズはHIトプコール50mmF2。開放値はボディ側のダイヤルで手動でセットするので開放値の最大値はF2らしい。「らしい」、というのはIC−1オートには1976年に登場したニューIC−1オートが存在し、ニューIC−1オートには55mmF1.8を用意したのだ。なので開放値もF1.8を用意している。他にもホットシューを装備したとか違いがあるのだが、1976年のカメラがやっとホットシューって如何なモノだろう。1977年にはニコンFMが登場するのだが。ともかく、拙僧の個体はどうやらニューIC−1オートで、(旧)IC−1オートの画像が見つからないので細部がどうなっているのか分からない。
 シャッターは自社製の電子シャッターでシャッター速度優先AEを登載。厄介なレンズシャッター一眼レフ用レンズとの互換性の制約か最速は1/500と抑え気味。シャッター速度の設定はマウント基部のリングで行うニコマートやOMシリーズと同様である。それは構わないのだが、困ったことに拙僧の個体は1/30以下でないとシャッターが開かないのだ。何度も切ると稀に1/60以上でも開くときがある。1/30以下ならAEも満足に働くようでモノクロネガを見る限りは不満は無かった。しかし、極めて使い辛いカメラになってしまったな。逆に1/60以上しか使えない方が便利だ。どうも、このトラブルは本カメラではメジャーらしく、どこかしらの電気接点の問題らしい。何度もシャッターを切ると復活する場合もあるらしいのだが、拙僧の個体はダメのようだ。
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 兄貴分のRシリーズも70年代には終了してしまったようだ。現在ではトプコンは東芝の支援を受け入れて医療用光学機器や建築用の測定器を製造している。カメラも製造しているらしいのだが、コンシューマに流れるようなものではないだろうな。案外、陸自のAH−64Dの光学測定機かミサイルのシーカーにトプコンの名が刻まれているかもしれないな。残念ながら、現役で稼働している兵器だと伝説にならない。

 
   では、三河散歩編をご覧頂きたい。


(了:2015/5/2)

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