キヤノン デミEE28


DemiEE28
早々にハーフ判から撤退したキヤノンのハーフ判末期モデル

☆ジャンク度☆
モルト補修
撮影可能


DemiEE28
 リサイクルショップでケース付きが480円。
 本カメラの妥当な価格である。


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 デミ(初代)から踏襲するSH28mmF2.8レンズ。
 多分、キヤノンは新しくレンズを設計するのが面倒だったのだろう。


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 プリミティブなファインダー。

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 ストラップを三脚座に取り付ける設計仕様は全く納得できない。
 これがお洒落だと思ったのだろうか。


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 ホットシューは非搭載。
 この巻き上げレバーは小振りで使いやすい


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 デミEE17では保護ラバーが付いているファインダーも、ただの素穴になっている。


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 ISO感度の上限が400なのは、当時並。


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 アルミ製のボディシェルは凹みやすい。


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 経年劣化でモルトはボロボロ。


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 崩壊したモルトはウンザリするが、レイアウトが素直なので意外と補修は楽だ。



 ライカ判のアパーチュアを半分にしたハーフ判カメラというのは第二次世界大戦以前にも存在した。そもそも、我々が普通にフィルムカメラで使っているライカ判のフォーマットは35mmシネカメラの2コマ分を起源としているから、35mmシネカメラフィルムを流用したカメラが、そのアパーチュアをフォーマットとして選択したのは自然の成り行きだった。しかし、我々がハーフ判というカメラを認識する起源となるカメラがオリンパスのペン(初代)であることに異論はないだろう。当時、6000円という庶民が買えるギリギリの価格帯で良く写るカメラを設計・販売したM氏はオリンパスファンならずとも伝説の人物となっている。もっとも、このM氏は偉業ばかりではなく、わりと困ったこともしてオリンパスを窮地に追い込んだりしたのだが、本ページの主人公はペンではないので割愛したい。
 ペンシリーズは爆発的なヒットとなり、他社も追随した。ペン(初代)の発売が1959年で60〜70年代を通してハーフ判のムーブメントが燃え上がった。キヤノンがデミシリーズでハーフ判市場に参戦したのがデミ(初代)の発売が1963年である。キヤノンのハーフ判はデミシリーズの他に熱狂的なファンが少なくないダイヤル35シリーズがあるが、やはりダイヤル35(初代)の登場が1963年となっている。これは他社に比べると遅い方で、キヤノンとしてはハーフ判などというライカ判の代用品への参戦は慎重だったのだろう。これはミラーレスの参戦を見送って、EOS M(初代)を渋々開発した近代の歴史と重ならなくもない。キヤノンというのは意外と保守、というより自分が開拓したテクノロジーでないと不満足なのだろう。なんだか他人が作ったルールに合わせるのが苦手で、自分勝手なルールを押し付けるアメリカ合衆国を思わせなくもないな。しかし、やるとなったら徹底的にやるのがキヤノン流である。デミ(初代)は実像式ファインダーに4群5枚のレンズを奢っていた。評判の良いペンシリーズのD.ズイコーがテッサー型の3枚玉だったから、意地でも上位を狙ったのだろう。しかし、レンズの写り具合は枚数が多ければいいというものではない。
 本カメラの登場はハーフ判ブームも安定期に入った1967年である。ダイヤル35−2の発売が1968年だからキヤノンのハーフ判カメラの最終はダイヤル35−2になるが、これはちょっと特殊なカメラだからデミシリーズの最後となった本カメラがキヤノンのハーフ判参戦の最後の矢となるだろう。構造はデミ(初代)と比べるとかなり簡素になっている。レンズは同じ4群5枚のSH28mmF2.8だが、ファインダーが簡素なブライトフレーム付になった。セレン式露出計は受光部がレンズ周辺に配置するリング状になり、プログラムAE専用機である。一応、ストロボに対応するように1/30固定のマニアル絞りが設定できるが、晴天下では実用にはならないだろう。プログラムAEは1/30から1/250までの4段になっている。フォーカスはゾーンフォーカスで目測である。多くのハーフ判は28mm前後のレンズが付いているから目測でも何とかなったのだ。勿論、ハーフ判だからライカ判に換算すると50mm位の画角になる。
 パッケージングとしてはオリンパスのペンEESに近い。しかし、ペンEESの登場は1962年だからキヤノンのハーフ判カメラに対する熱度の低さを感じるな。しかし、ペンEESはのプログラムAEは1/30と1/250の2段切り替えだから、やっぱりキヤノンは仕様的なアドバンテージを崩さなかったのだろう。オリンパスはペンEESの後裔機として1968年にペンEES2を出している。市場はハーフ判のニーズが冷めていなかったが、キヤノンの熱は冷めていたので60年代には早々に撤退してしまった。1961年に登場したキャノネット(初代)のシリーズが爆発的なヒットとなり、1969年にはライカ判でかつコンパクトなニューキャノネットQL17が控えていたから、ハーフ判などというキヤノンからすれば玩具の様なカメラに熱を割きたくなかったのだろうな。実際、オリンパスはハーフ判の大成功で、ライカ判カメラの成功はXA(初代)まで停滞する。
 本カメラには兄貴分のデミEE17が存在する。登場は1年先行した1967年だ。レンズは30mmF1.7と奢ったものでシャッター優先AEを搭載していた。露出計はCds素子使用で電池を使用していたが高仕様となっていた。マニアル露出も可能で露出計が壊れていても撮影できる。Cds式露出計を使用したカメラはキャノネットQL17/25が先行しており、そのあたりの技術を転用したのだろう。セレン式露出計を使用していたキャノネットジュニアも生産が続いていたが、デミシリーズに関してはデミEE17が最高潮で、本カメラは余力で作った廉価機と位置付けている。定価ベースの価格はデミEE17が15800円でデミEE28が11300円。当時の大学生初任給が1〜1.5万円の時代だった。ペン(初代)の6000円という価格は革新的だったのだ。1960年代の4500円の差は決して小さくなかっただろう。
 現在、本カメラを使おうとするとフィルム室の隙間を覆うモルトが崩壊しているのが悩みの種である。これを排除して面積の大きいモルトを張り替えるのは中々大変な作業ではある。もっとも、そういうカメラはこの年代には少なくないし、本カメラはモルトの形状もシンプルなのでモルト貼りも楽な方だろう。
                ☆           ☆
 ハーフ判カメラのムーブメントの一因として「高価なフィルムで倍の枚数が撮れるから」というのがあった。そしてハーフ判が廃れていくのはフィルムの価格が下がって、同時に庶民の所得が上がってハーフ判カメラのコストアドバンテージが無くなってしまったのだ。その後、京セラのサムライやコニカレコーダーの様な自動化したハーフ判カメラがプチ流行りしたが、やがて終息する。ハーフ判が流行ったのは敗戦で貧乏だった日本とドイツ(東ドイツ)と、戦争は勝ったど甚大な損失とスターリンの粛清でヘロヘロだったソビエトくらいだったようだ。キヤノンがハーフ判を見切ったのは、コダクロームを水のように使うアメリカ市場で覇権を獲得するのにはハーフ判カメラなんぞにパワーを割くのは適切でないと判断したのだろうな。
 回りまわって現在では再びフィルムも高くなって現像やプリント代も高くなった。なので一時期は再びハーフ判が主にロモグラフィーの方々に注目されるようになった。そのロモグラフィーの方々もフィルムを卒業してしまい、フィルム需要は下がる一方だ。沢山撮れるハーフ判を選択するか、折角の高価なフィルムをライカ判で撮りたいかというと後者な気がするな。

 では、撮影結果(国府宮はだか祭編)をご覧頂きたい。

(了:2016/2/17)

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